【お話のご紹介】 北辰電機農場跡地を探して
「母を訪ねて三千里」涙ぐましい話がありました。
今回ここに紹介するのは、戦後の生活の厳しい情勢の中、お父様が働いておりました北辰農場跡地を探し歩き、ついに探しあてた親孝行のご子息様のお話を紹介いたします。
我々北辰電機の大先輩が、このようにご子息様から信望のあったお父様でありましたこと、何よりも嬉しく又自慢の話であります。戦後の厳しい情勢の中、北辰電機が復興出来ましたのも、このような素晴らしき大先輩方のお陰であったものと改めて感謝する思いであります。
ここに「北辰電機農場跡地を探して20年」、息子からお父様に対するご慈愛の心、素晴らしいお話であります。このお話をここに紹介しますので、ご覧いただき遠き北辰電機を思い起こして頂ければ幸いです。
辰友会事務局
<令和3年11月10日>北辰電機農場跡地を探して
鷹野 次長
私は昭和20年生まれの後期高齢者です。既に20数年前に94歳で亡くなりましたが、農業技師だった父、鷹野次郎は終戦後間もなくの食糧事情が悪いころ、北辰電機製作所に雇われ、現在の横浜市港南区上永谷にあった会社農場で社員に提供する食糧や薪の生産に当たっていました。その後、やはり北辰電機の下丸子農場に移りました。
当時、私が1歳から4歳ごろの話で、下丸子時代については家でウサギを買っていたこと、ヤギに角で小突かれたこと、リヤカーに乗せられ畑に向かったこと、多摩川の堤をアイスキャンデー売りを追いかけていったことなど、薄ら覚えに記憶があります。また、数年前、東急多摩川線鵜の木駅で降りて農場跡地を訪ねたこともあります。しかし、上永谷についてはまったく分かりません。ただ、父が亡くなる前、上永谷の野庭だか日限山だかにあった農場にお前もいたのだと語っていました。
物心がつく前とは言え、私は自分の子供時代の場所を探し、そこを訪れたいと長い間、思ってきました。たまたま現在私が住んでいるところが同じ横浜市の金沢区なので、何度か上永谷付近を歩いたり、市の港南図書館で調べたりしましたが、茫としてつかみようがありませんでした。土地の古老に聞いても一帯が宅地開発され、農場の面影は何一つありません。
ただ、ごく最近、港南図書館の協力により、北辰電機製作所創立50周年記念の社史を見つけることができました。しかし、同書にも清水荘平社長が横浜市に所有していた30町歩の山林を開墾し、食料生産に当てた旨が書かれているだけで、場所を特定することはできません。
そこで、ウィキペディア「北辰電機製作所」に当たったところ、貴辰友会を見つけることができました。貴会会員の皆様には当時のことをご存じの方がいらっしゃるのではないかと考え、事務局の石塚様にお伺いしました。ただ、何分古い話で、当時を思い出せる方はまずいない、当時の資料も残っていないとのことでした。僅かな情報として、鎌倉にも農場があったとの話をいただきましたので、鎌倉市梶原や清水社長が所有していた山林を調べてみましたが、私が探している場所とは違っておりました。
私は、確かな場所を特定できないのなら、この辺りが農場だったとの漠然とした位置でもいいからと再度港南図書館で調べたところ、地元の郷土史研究会「港南歴史協議会」にたどり着くことができました。
その後、同協議会の方が地元のお寺「貞昌院」の住職さんに取り次いで下さり、同住職さんから現在も上永谷で経営している「笠原農園」に尋ねたら何か分かるかもしれないとの示唆をいただきました。
11月2日、四度上永谷を訪れました。住職さんから教えてもらった笠原農園を目指し、港南図書館脇の馬洗川緑道沿いに南下。旧野庭高校から右に折れて坂を下った右側に農園の看板がありました。中へ入ると農園主と思われる男性がいたので伺いましたら、この目の前の住宅街がかつての「北辰電機農場」だったとのこと。持ち主の清水社長の名前もその方から出てきたので、間違いないと確信しました。
谷戸、下り坂の地形、牛舎、柿の木、雑木林、畑に上る小道、キャベツ畑など(赤ん坊ではありましたが)大昔に私の目に入ってきた原風景を改めて見ることができ、感動一入。畑の脇の草に座り、持参した一合瓶を傾けながらひとしきり思いに浸りました。
さらにまた、農園主の奥様から正確な場所はこの先の港南プラザ近くの「大橋さん」を訪ねたらいいとのことで、そこまで進み、お宅を探したところ、運よくご本人がいました。この方からも辺り一帯が清水社長の山林だったと教えてもらいました。あちこち尋ね歩き、ようやくかつて両親とともに私が立っていたその場所に立つことができました。
父は山梨出身の明治生まれ。県の農林高校を出てブドウの育種試験場におりました。戦時中は目黒の花卉園芸会社で働き、戦後北辰電機に移ったようです。昭和24年からは東京世田谷で長く生花店を営んでおりました。
私が若いころは商売の一面だけを見て、父を嫌っていました。小心者のおべっか使い、咲き過ぎて商品価値の落ちた花をどこに売るか、生け花の先生への中元・歳暮いくらいくらをどう単価に上乗せして回収するか、思えば当然のことを商売の狡さのように感じていました。しかし、父の死を目前にしたころ、すべては母と共に4人の子供を育てるための必死の営みだった。戦後の大きなうねりの中で一つ間違えればたちまち荒波にひっくり返る小さな舟を懸命に漕いでいたのだとようやく分かりました。
今回、北辰電機農場跡地を訪れ、農作業に奮闘する両親の姿を偲ぶことができ、近来にない感動と喜びを味わうことができました。
貴会会員の皆様の中にお父様かお母様が北辰電機に勤めた方がいらっしゃったら、ひょっとして皆様ご自身も父の作った野菜を召し上がった、父の刈った薪で竈の火を起こされた、そんなことがあったかもしれませんね。
終わりになりますが、辰友会の皆様の末永いご健康をお祈りいたします。